統一見解の問題点
- この記事で
わかることUnderstandable - 災害発生当時、行政は国民が混乱するのを恐れ、それをなんとか抑え込みたいという「エリートパニック」に陥っていました。しかし一般生活者が本当に必要としているのは偏りのないたくさんの情報であり、また意志決定は自分でできるのが望ましいと考えています。
情報伝達が時間との勝負であるSNS時代に必要な情報発信のありかたについて整理しました。
- こんな人に
オススメ!Push - 3.11発生当時の情報の混乱について調べたい人
有事の際、専門家の見解をどの程度参考にすべきか知りたい人
マスコミ、マスメディアの報道のありかたについて考えたい人
政府や専門家が情報を統一して発表しようとすると、一般市民は不信感を抱く。
SNS時代には、意見の幅があってもいいから科学者は多くの情報を発信し、一般市民が自分で意思決定できるようにすべき。
福島第一原発事故後に、放射線に関して危険なのか安全なのか、様々な議論が噴出して、人々は何を信じて良いか分からず、混乱に陥りました。
事故の状況を丁寧に説明すべき責任を負っているはずの東京電力も、原子力安全・保安院も、連日の記者会見の場が設定されながら、要領を得ない回答を繰り返し、国民に苛立ちと不信感が募る結果となりました。残念ながら状況を一般の人にわかりやすく的確に伝える態勢が整っておらず、それに適した訓練を受けたコミュニケータの存在も、それをサポートする組織体制も、そこには存在せず、対話能力に欠けた人材が場当たり的に返答するという構図でした。
そんな状況のなか、政府は放射線の安全性を強調し人々を安心させて混乱を防ごうという意図が見え隠れしていました。当時の枝野官房長官は、「ただちに健康への影響はない」と繰り返し発言しましたが、それは却って、「将来的には健康被害が出るかも」と受け止めて国民に不安を感じさせる結果ともなりました。
一方で巷では、放射線の危険を煽るような意見が日々高まっていき、メディアでも特に週刊誌などではその傾向が強く、また事故後に緊急出版された書籍も大半が放射線の危険性を訴える内容でした。
人間の生物学的本能として、危険をいち早く察知するという認知機能の特性があります。「危険だ」との情報には敏感に反応する一方で、「安全です」との情報の価値は低いのです。メディアといえども商売なので、安全を主張しても売れず、危険だと言えば明らかに売れるため、科学的見解とはかけ離れて、どうしても危険情報が出回りやすいのです。
様々な情報が溢れる事態に接して、政府や専門家は、統一された情報がないから国民が混乱するのだと考え、行動の指針となるような統一された一つの情報だけを発信すべきだと考えていました。国民が混乱するのを恐れ、それをなんとか抑え込みたいという、いわゆるエリートパニックに行政者側が陥っていたわけです。
一方で、一般の人たちは、政府や専門家から発出される情報が偏っている(ように見える)ことが不安だと感じます。統一見解しか示されないことで、政府や専門家がなにか隠しているのではないか、と彼らのことが信用できず、その不信が不安を招いたのです。
混乱してもよいから偏りのない系統的知識を得たいし、意見の幅があってもいいからたくさんの情報を欲した人が多かったのです。その上で、意思決定は自分でできるのが望ましいのです。
科学者の責任として、行動指針となる1つの統一見解を提供することか、幅のある助言をして市民に選択してもらうことか、どちらが取るべき態度でしょうか。
従来は、一般市民は知識が欠如しているせいで非合理な恐怖を抱くのだ、正しい知識さえあれば市民は怖がらない、とする「欠如モデル」に基づいて、科学的知識の普及こそが重要だとの考え方が主流でした。
しかしながら、最近の科学技術社会論分野の研究では、科学リテラシー量が同じでも、リスクへの懸念には差が出るとか、知識が増えるほど却って不安が増す人も居るといった研究結果から、上記の欠如モデルは正しくないことがわかっています。
統一見解への志向は為政者や科学者が市民に伝える情報を統制したいという心の表れですが、自分で納得して判断したいと思う市民からすれば偏った情報に対して不信を抱く原因となります。
また、現代のSNS社会においては、学会や政府が専門家の見解を集約して統一見解を策定する時間の間にも、異端の見解や全くの素人の意見、あるいは誤情報などがあっという間に台頭してしまい、統一見解が発表されるころには科学的に間違った情報が世の中にはびこってしまっているであろうことは明らかです。
情報伝達が時間との勝負であることは、我々のネットワークシミュレーションによる研究からもはっきりとしています。
コメント